違国日記とヤマシタトモコ
好きな漫画家の1人、ヤマシタトモコについて語りたい。
この作家のどこが好きか、それは自身の多様性の中にある「自分とは何か」を問うところにある。
まだ名づけられていない自身の多様性、その一つ一つに名前を付け、バラバラに感じていた自分を統合する。その結果、多様性の風に吹かれても私は私であると。
全体主義の親世代から多様性主義に変化しつつある今、本質的な問いを多様性側から接近する試みだと思う。
多様性を可視化する外部装置がインターネットとSNSによって日常に入ってきた。自分は何にでもなれるという夢を大人になっても見れるようになった。摩耗していく自身の可能性を自分の映らないディスプレイを見続けることで延命できるようになった。
我々が欲した多様性という幸福は、人を救う豊かな概念であり、依存性の高い幸福でもある。
なぜ、この幸福から離れて、わざわざ多様性の中の自分を問うのか。
結局のところ、この幸福は虚妄であって、現実に存在する自分は時間に沿った存在だからだ。
つまり、自身を問うことは時間を見つけることなんだ。
違国日記という漫画は、両親を亡くした高校生の女の子を小説家の叔母が導く物語になっている。死という絶対的な時間を提示された子どもが自分の時間を獲得していく過程はとても美しい。
槇生ちゃん、好き。
わかるわーって感じ。