友人の矢凪エチカ(ここでは普段からの呼び名で『ジェノ』と呼ぶ)の「旅のエチカ」を読んで半年が経ってしまった。ようやく感想を書く余裕ができたので、土曜の朝の娯楽にコーヒーを飲みながら書いていこうと思う。
20歳の時に初めて会って、それから随分と時間が経った。今でも初めて会った時の事を覚えている。誠実な眼差しと目を伏せた時に見え隠れする孤独な少年の面影が彼の少し前のめりな喋り方とミスマッチしていて、とても好印象だった。
1人の人間の完成というのはその人独自の環世界が他者によって変化しなくなった時に到達すると思う。おれもジェノもおそらくこの環世界とやらをすでに持ち合わせてしまったと感じる。つまり、思考や興味の指向性がある程度定まってしまったという事だ。
音楽で例えるならば、バッハから近現代まで駆け抜けた後にレパートリーとして残った曲が”その人”という事。
「旅のエチカ」を読んで、ジェノはこの方向で良いと背中を押したくなった。(同時に余計なお節介もしたくなった。)
ここからは言葉よりも音楽で例えた方が伝わりやすいので一旦音楽を通して書いていく。
「旅のエチカ」は初期ロマン派的な要素を散りばめながら、シュニトケ的なダークツーリズムに辿り着く。これは初めて会った時からジェノに一貫する要素だ。シューマンのジュブナイル文学、ショスタコーヴィチの抑圧、シュニトケの(ダークな)回想。
誰にとっても現実は凄惨なもので、その環境から身を守るために必要な文化がある。この2冊の本を通してジェノは多くの時間を死を辿る事に費やした。彼の喘息の話を知っているからこそ、この恐怖と向き合う機会が”今”の自身の健康を際立たせる機会にもなっていたのかもしれない。
ただ、あまりにも長い死の旅へ1人で向かう姿に少し罪悪感を覚えた。シューマンのような物語が好きなのに、出てくる言葉に花や木々(移り変わる命)への感動が少なく、過去の遺構(もしくは近い未来に遺構になりうる刹那の文明)への感想が多くを占めた。そして、そういった場のその場限りの人の連続性を上手にこなしていく器用で孤独な旅人だった。
始めに環世界とか言ったけども、ジェノにはこの孤独から解放されてほしい。向こう側の暗闇がなくとも、こちら側は十分に輝いている。人は花と同じように短いスパンで明滅する光だ。知の遺産や石の遺構は形而上学的な満足を与えてくれるが、今を生きる我々には太陽と土と水が必要な植物に近い。知的な夢は卵の殻のように尊厳を守るが、今は”我らが雛で、卵は世界だ”。シューマンからリストへ憧憬が受け継がれたように、その卵の殻で響いていたアルペジオは記譜していいし、演奏していい。(リストは娘にたくさんシューマンを弾いた)
過去を見る旅ではなく、今の欲望を見る旅が彼の高潔さを完成させる最後のピースになる気がした。
シューベルトのように生命を震わせ、ショパンのスケルツォのように踊り狂って爆ぜてもいい。若きスクリャービンが媚態や性の喜びを表現して、晩年は炎に向かってコサックダンスして死んだように、作品や人生においては素直(恥じらいなく私的であるという馬鹿でかいエゴ)である事が美徳だと思う。
その欲望へ向かって愚直に進んでいこうじゃないか。
近いうち、植物園でも行こう。