限られた時間と指の体力を何に使うか。
特に体力使う曲を練習するならどれにしようかめちゃくちゃ悩んだ。
モーツァルトやベートーヴェンもいいんだけど、ゴドフスキーが一番集中できる。
アムランのような美しさを目指したい。
虫の音が秋の夜を告げた。
過ぎ去った季節を振り返る侘しさ。
それを「郷愁」と呼んでいいのかはわからない。
ただ振り返る季節の数が多くなったから、そう感じるのかもしれない。
この季節に良く聴いていた曲を聴いてみようと、ふと思った。
それがこの「Everything Must Go」だった。
アルバムのタイトル曲で、彼らの最後に相応しい幕の閉じ方だった。
過ぎ去ったものに宿る残魂に惹かれる。
その魂の美を見抜く術を身に付けるのが人生の目的であるようにも感じる。
どう残すかはブラームスのようであってもいい。リストのようにあってもいい。
音楽の雄弁さは年代記として美しい。
何はともあれ、四季の訪れを感じる場所に住んでてよかった。
今朝、突然「今までありがとな」と言われた。
2年半の付き合いになる利用者さんとの別れである。
似たもの同士というのは年が離れていてもわかるものだ。
同じ孤独を背負った男同士は、気を使いすぎずに済む。
高齢者との別れは、「またどこかで会おう」ではない。
「おれが先に死ぬけど、達者でやれよ」になる。
親しい爺さんから言われる別れの「ありがとう」ほど、心にくるものはあまりない。
しばらく会ってないのにまだ言ってこない爺さんもいる。
彼らのために練習してる曲があともう少しで弾けるのに、急なんだよ。
今日は冬に向けて毛布とコタツ布団をコインランドリーで洗う。
そのあとは夏に切れた腕時計のベルトを替えて、チェス盤を探す。
先日、音楽の先生と有閑階級とインターネットの話をした。
先日、先生との雑談で「かつてのインターネットは有閑階級が作っていたオンラインの図書館だった」みたいな話になった。
— だんて・λ (@dante_camenzind) 2022年9月14日
検索して探すというのは大切な行動だったと振り返ることになった。
そんなことを考えていたらゆずさんがはてブを更新するようになって、「かつてのインターネットに帰ろう」という気持ちが後押しされた。
探さないと見つからない場所に自分を置くことで、少しだけ居心地のいいインターネットになるかもしれない。
好きな漫画家の1人、ヤマシタトモコについて語りたい。
この作家のどこが好きか、それは自身の多様性の中にある「自分とは何か」を問うところにある。
まだ名づけられていない自身の多様性、その一つ一つに名前を付け、バラバラに感じていた自分を統合する。その結果、多様性の風に吹かれても私は私であると。
全体主義の親世代から多様性主義に変化しつつある今、本質的な問いを多様性側から接近する試みだと思う。
多様性を可視化する外部装置がインターネットとSNSによって日常に入ってきた。自分は何にでもなれるという夢を大人になっても見れるようになった。摩耗していく自身の可能性を自分の映らないディスプレイを見続けることで延命できるようになった。
我々が欲した多様性という幸福は、人を救う豊かな概念であり、依存性の高い幸福でもある。
なぜ、この幸福から離れて、わざわざ多様性の中の自分を問うのか。
結局のところ、この幸福は虚妄であって、現実に存在する自分は時間に沿った存在だからだ。
つまり、自身を問うことは時間を見つけることなんだ。
違国日記という漫画は、両親を亡くした高校生の女の子を小説家の叔母が導く物語になっている。死という絶対的な時間を提示された子どもが自分の時間を獲得していく過程はとても美しい。
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