それは、太陽と番った海だ

楽しい1日は睡眠から

ドストエフスキーの悪霊

Twitterと距離を置いたら書きたい事が山積みだったと気付いた。

 

昔に友人が「ドストエフスキーの悪霊は自分の話だった」と言っていた。スコセッシの「タクシードライバー」も同じように感じる人がいるかもしれない。

 

中学生の時に「不条理な大人達を許すにはどうしたらいいか」と頭の良い大人に聞いた事がある。彼らの返答は不思議と一緒だった。

 

ドストエフスキーを読みなさい」

 

以前、パートナーに「どうしたら他人を許せるか」と問われた時にこの話をした。不条理な秩序を知って理解する。言葉にすると簡単だけど、この苦しみを乗り越えなければならない。

 

今、中学生の自分に同じ問いかけをされたらもう少し細かく詳細に答えられる気がする。

 

音楽にもドストエフスキーのような作品はある。バッハのコラールの「来たれ、異教徒の救い主よ」は近いかもしれない。

 

Herbert Schuchの演奏が本当に素晴らしい。


www.youtube.com

 

映画「Into The Wild」で「幸福が現実となるのはそれを誰かと分かち合った時だ」という台詞が出てくる。

 

これには悲しみも怒りも含まれると思う。音楽を通して分かち合ってもいいかもしれない。

 

これはもっと悲しい曲だけど、美しい。この音楽を聴いている時、私たちは同じ悲しみの中にいる。


www.youtube.com

ぼくたちの記憶

約3年間携わった爺さんたちが死んだり、手に負えなくなって、いなくなった。

このところ立て続けにこういった別れがある。

 

2年ほど前にブラームスを美しく弾く人を探していた。そこで見つけたのがラルス・フォークトというピアニストだった。彼の選曲と演奏を聴いて、友達になれそうだと喜んだ。

 


www.youtube.com

 

彼は去年、癌で亡くなった。聴きに行きたいピアニストの1人だった。

彼の弾いたヤナーチェクの「おやすみ」を聴いて、いなくなった爺さんのために弾こうと思ったのが懐かしい。

 


www.youtube.com

 

認知症は記憶の癌だ。それでも彼らは3年間覚えててくれた。名前は覚えられなかったけど、顔と声は覚えててくれた。そのわずかな繋がりが友情を育んだと思っている。

 

 

庭の時間

先日、携わっている爺さんに自宅の庭を案内してもらった。腕を支えながら、一緒に彼の作った庭を歩いた。梅の品種や自分で作った庭具などを話してくれた。

 

彼が今話してくれているのは、彼が庭で過ごした時間なのだと気付いた。声色や目線、歩く時の流れまで、すべてに「郷愁」と呼んでいいものがあった。

 

時間を分けてくれた。

 

梅を植えて見ようと思う。

怒りたい人たち

何かに怒りたいと火種を探し続けている人たちが身近に増えてしまった。火種がどんなに近くにあっても抑えられない人たち。

 

子供の時に経験したイジメの対象が順番に変わっていくやつ…わかるかな。あの世界の狭さを大人になっても感じている。

 

怒りについては随分前に繰り返し繰り返し考えた。それが情動発達に起因するとか、1種の媚態なのでは、とか…まぁ色々あるだろう。

 

インターネットの隅っこでこういう事を言える場所を作っておいてよかった。怒る人ばかりで逆に孤独だ。

 

結局のところ、距離を置いて広い世界を擬似的に作るしかない。

 

続きを読む

ナヒーダの話

原神のストーリーは毎回すごい。頭がいい人が何かを伝えるための努力をしてる。

 

知識、技術、経験を誰かに寄与するために使う。これは本当に尊い

 

衒学的な文化人っぽいのはたくさんいる。でも、さりげない何かに色んなものが詰まってるのが素敵だ。

 

原神の物語にはそういうものがある。

 

YAMAHAの補助輪

2月15日の夜に調律師の家へ行ってきた。

1960年代の小さなアップライトの試弾の誘いだった。

 

オーバーホールする前も弾いていたので以前の状態を覚えていた。とても練習に使えるようなものではなく、演奏に支障が出るレベルの状態だった。

 

ヤマハは本当に良いピアノを作っていると思う。どのピアノを弾いてもヤマハのタッチだし、ヤマハの音がする。ただ今回のオーバーホールで分かったことがある。

 

今回の見所は鍵盤を押すことで表現できる音の幅だった。調律師の解説でもよいスタインウェイを目指したと言っていた。

鍵盤の押し方で極端に音色が変わる。誤魔化しがまったく効かない。今まで弾いた中でもとんでもないじゃじゃ馬だった。

まるで軽自動車にF1のエンジンが乗ってるような恐ろしい初速で、ピアニッシモを出すには浅く浅くアクセルを踏むような緊張感があった。

 

1時間ほど弾いた。慣れてくると弾きやすいと気付き始めた。音色の幅が広いため、各声部が歌うのだ。ダイナミクスは小さな楽器だからあまり表現できないが、打鍵の仕方で音色が変わるのであまり気にならなくなってくる。むしろ、必要以上にダイナミクスを作っていたと気付く。

 

この経験から指への神経の使い方が変わった。背骨から2本の腕が生えていて、肩甲骨から指先までの重さをコントロールすること。これが表現の幅を作ることだと気付かされた。決して指だけで弾いてはいけない。

 

教室のC5(グランドピアノ)を弾いた時も同じように弾いた。

そう、ここで気づいた。

ヤマハのC5は汚いフォルテッシモが出ない。常に綺麗な音が出るように鍵盤の重さやキャプスタンの形状によって打弦スピードを制御されている。音色の幅が狭く感じる。

 

これは初心者には優しい作りだと思う。確かにこの補助輪でも表現の幅は作れる。これがヤマハの長所であり短所なんだと気付いた。

でも、これではピアノの性能を生かしきれていない。

 

ある程度上達した時にこの補助輪を取る必要がある。そう確信した夜だった。

 

 

ラフマニノフのショパンを聴こう

先日、先生が「神のピアノを聴こうか」と言って一緒にラフマニノフショパンを聴いた。

葬送の演奏はたくさん聴いてきたけど、ラフマニノフはずば抜けていた。おれが聴きたかった葬送はこれだった。

 

初っ端から度肝を抜かれた。おどろおどろしく駆けていく馬。まるで生命にすがりつく心音を再現しているような、そんな駆け抜け方をしている。

 

第4楽章のユニゾンは吹きすさぶ風だ…葉が枯れて落ちていく運命をなぜ音楽で再現できるのか。

 

第三楽章は言うまでもない。聴けばわかる。やばい。

 


www.youtube.com

 

音楽の表現の幅はこんなにも広かったのかと。聴き終わった後は茫然とした。これを生で聴いていたらと想像するとゾッとする。

 

この機会にこの世代のピアニストをもっと聴いてみようと思った。

 

ショパンで刺さったのはベンノ・モイセイヴィチだった。この人のノクターンは貴族の演奏会ではなく、1人の詩人が綴るものだった。

 


www.youtube.com

 

まだ天井が見えない。少し見えていた天井は雲で、空はもっと高かった。

美しい音楽をありがとう。